2013/03/12(Tue)
ぼんやり暮らしていても、あれから2年も経ってしまった。
あの日のことは今でもはっきり覚えている。
午前中に盛岡の支社からデータを持って同僚がやってきた。
エクセルに食わせてちょっと加工、それをテキストで吐き出させて、その同僚と切り分け作業を行っていた。
お昼、4号線のラーメン屋へ行った。
彼は魚だしに煮卵とチャーシューをトッピング。
自分は鶏出汁で薄味だったなぁ。
会社に戻ってきて、データの切り分け作業を続けていたら、急に揺れだした。
そして、その揺れが中々収まらない。
かなり長い揺れだった。
後で知ったことだけど、ちょっとのタイムラグで2つの地震が起きていたという。
仕事場では自家発電が作動したので、NHKのニュース速報を見ながらその日の作業を開始した。
巨大津波の警報が出され、後に本当に巨大な津波が沿岸を襲っていた。
また、気仙沼港や千葉のコンビナートでは火災が発生して、ものすごい炎が街を覆っていた。
今までには見たことも無い未曾有の災害が起きていた。
災害が起これば、大きければ大きいほど重要性が増す仕事なので、家族の安否を確認した後は、いつもとは違う、イレギュラーな体制の仕事に入らなければいけない。
果たして会社の機能するのか、工場のほうは動くのか。
何とかその日の作業を終わって帰ったのは午前2時を過ぎていた。
家に帰れば、事前に連絡をもらったとおり、窓ガラスと玄関のサッシは吹き飛び、箪笥は部屋に覆いかぶさるように倒れていた。
本や荷物が散乱しとても寝起きのできる状態ではなくなっていた。
その晩はどうしようもないので、自分の車に乗り近くのコンビニの駐車場で一夜を明かした。
次の日からは家の片付けと仕事と買い出しと忙しく動き回った。
けれどやっぱり寝起きはできない状態なので、仕方ないのでその晩から1週間を市役所で避難所暮らしすることを決めた。
確かに大変だった。
けれども、自分たちよりももっと大変な思いをしてる人がいた。
いや、今もずっと闘っている人たちがいる。
津波で家が流されてしまい、避難所暮らしを続けている人がいる。
原発事故からの放射能のおかげで、すんでいる場所へも戻れない人たちがいる。
その人たちはいつになったら普通の生活に、元の生活に戻ることができるのだろう。
Posted on 2022/10/30 Sun. 17:49:03 [edit]
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