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Simple Hama @岩手一関

Webサイト「Simple Hama」のミラー的ブログ since 2020.05.10 19:00

 

【2度目の入院】その6 

松葉杖は秋ごろまで使っていたんじゃないかな。
夏の暑いときには、病棟の廊下の温度と気温・湿度の差で結露する。
廊下の真ん中に滑らないようにと絨毯みたいなものを引いていた。それでも松葉杖をその絨毯から外についた時は、情けないほどにつるっと滑って転んでしまう。
あの廊下は随分と硬かったなぁ。今のようにエアコンで空調をするのが一般的ならば、結露するなんていうことも無かっただろうに。(笑)

ギブスが取れて、最初の3日間だけは車椅子を使わせてくれた。
自分はずっと車椅子を使いたかったのだけれど、歩くことが最大のリハビリなので無理にでも歩く必要があったのだ。
自分の場合は、歩くときに足を保護するために松葉杖を使うのではなく、筋力がなくなってしまったので足をついたときに転ばないように支えにするために松葉杖を使ったのである。

長くなってしまった。
書いているうちに色々と思い出してきた。
楽しかったことや恥ずかしかったこと、淋しかったことが昨日のように思い浮かんでくる。
それを一つひとつ書いていると収拾が付かなくなりそうなので、この辺で自分の人生の中でも最大級のイベントだった小学校5年生の8ヶ月間を締めくくりたいと思う。

The End.

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Category: 【あの日のこと】

Tag: #2度目の入院 
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【2度目の入院】その5 

それ以上に大変だったのがギブスだ。
麻酔が効いているうちは感じていなかったが、麻酔が取れた瞬間から、膝を曲げて固定されてる窮屈感が襲ってきた。麻酔後の痛みどころではない。人間はあちこちを動かしながら全体のバランスを保ち生きてるんだなぁと、今更ながらに思う。

自分の足も膝を90度に曲げ、しかも上半身は真上をむいて動かせない。
ギブスは胸の下から巻かれ、手術した右足を膝下まで固めていた。
今考えても恐ろしい。(汗)
ためしにやってみると良く分かる。腕も90度に曲げて、その姿勢を何時間も我慢する。さて、どうなるか・・・。

ギブスはどのぐらい巻いていたのか覚えていない。
最初の1週間は窮屈感との戦いだったが、その後に少しだけ動かせるようにギブスに切り込みを入れた。
そうしたら随分と楽になったので、余り苦しいという記憶はない。
多分6月ぐらいにはギブスをはずしたんじゃないかなぁ。

それからは松葉杖をついて歩いていた。
そしてその後に待っていたのは苦しいリハビリであった。
自分のリハビリは90度に曲げていた足を90度よりももっと深く屈折できるようにすることと、なくなってしまった筋力を付けること。
曲がらない足を少しずつ力を入れて曲げていく、これがもう涙が出るほど痛かった。

けれど、自分の痛さは、筋ジストロフィー症の症状の進行を遅らせるリハビリに比べればたいしたこと無いと思えた。
自分がリハビリを受ける時間帯に筋ジスのリハビリの人が来ていて、それを目の当たりにすると自分の思いは大したことが無いのだなと思わされたのだ。

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【2度目の入院】その4 

手術当日、病室で朝から手術の準備だった。
手術着に着せ替えさせられて、点滴をしていたが、手術室に入るのは自分は2番目で、時間的に少し余裕があった。
今はどうなのか分からないけれど、当時は自分も子供だったということもあってか、手術があるというのは入院していた病棟では一大イベントに近い感じであった。
手術前の準備には出勤していた病棟の看護婦さん総出で当たってくれた。普段は会話もしたことの無い婦長さんまで病室に来て励ましてくれた。伊藤婦長だったなぁ。

病室から手術室までは結構な距離があったので、ストレッチャーに乗せられ天井を見ながら連れて行かれた。
その後は全身に消毒液を塗られ、下半身麻酔をした。
麻酔が効いたかどうかは、注射針を注して確認していた。不思議なもので針が刺さっているのは目で確認できたのだけれど、全然痛くない。何も感じない。そして足も動かなくなってくる。
手術の時は、その光景が見えないように胸の辺りに幕が下ろされた。けれど、医師や看護婦の話しは聞こえていたし、手術用具のぶつかる音などもちゃんと聞こえていた。
そうこうしているうちに疲れてたのだろうか、寝てしまった。
目が覚めたときは病棟へ入っていく扉が開いたときだったな。

手術自体は大変だとは思わなかったが、それ以降ギブスが外される日までが大変だった。
まず手術初日から次の日にかけて、内臓が動き出してガスが出るまでは何も食べられない。
もちろん水をゴクゴクと飲ませてもらえるはずも無い。けれど、喉が渇いて仕方ないので、脱脂綿に水を含ませてそれを吸って喉の渇きを・・・。慰めにもならないな。(笑)

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【2度目の入院】その3 

病院食は夕方から出されたが、最初の夕食はうどんのようなものだった。
あまり美味しいとは思えず、多分少し残したのではないかな。
病室には5人の男子がいた。肺結核のために1年留年しているS君、ペルテスで名取から来ていたN君、同じペルテスで仙台市内から来ていたM君、やはりペルテスで後に自分の一番の友達になってくれたH・N君、一つ空いて自分である。
その1ヶ月もしないうちに脊髄カリエスで登米からT君が来て、病室は満員の6人になった。
最初は病室が時代劇の牢屋のように思われて、一つ年上のS君が牢名主に思えてしまった。
次の日からはそんなことは少しも感じなかったのだけれど、手術や入院生活への不安とホームシックとが交錯してしまったのだろう。(笑)

手術は5月の連休明け、5月6日だったなぁ。
火曜日と木曜日が手術の日になっているようで、連休明けということになったようだ。
5日子供の日は良い天気だった。
病室前は砂場や遊具などがあってちょっとした遊び場になっていた。
何を話したのかは覚えていないけど、隣の病室にいた脳性麻痺で入院していた男の子と話した。
その時のお日様と風は今でも忘れない。そして、明日自分が手術だという不安も忘れてはいない。

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【2度目の入院】その2 

前置きが長くなってしまったが、その入院生活で思い出深い出来事を書いてみる

小学校5年生の4月に入院し12月に退院した。
入院したのは4月6日、新学期に間に合うように朝から移動して入院手続きと入学手続きを行った。
地元の一関市立山目小学校にも、多分1日だけか登校したはずであるから、途中で転校という形になったのだろう。
その入院の日、親父とお袋と自分の3人は親父の運転する車で仙台へと向かった。
親父は何を勘違いしたのか、仙台市内の国道4号と45号の交差するところから東に向かってしまった。
途中で人に道を聞いて、また西多賀へ向かったのであるが、親父の勘違いは仙台の東にある多賀城である。
まぁ、そんなこんなで4号線の南下し、おそらく名取川に架かる名取大橋のたもとから西多賀に向かった。
記憶ではバイパスの方なのか旧国道の方なのかは定かではないけれど、橋の欄干には大きな石の球体が乗っかっていた。どちらだろう?

病院側からは○時までに来て欲しいとのことだったけれど、道を間違えたおかげでギリギリ滑り込みだった。
それが入院第1日目の始まりである。
その日のことは、やはりちゃんと覚えている。
朝の入学手続きの時に、隣の病室に入院する多賀城から来た女の子がいたのを覚えている。彼女は症状の軽い脊髄側湾症で夏ごろまでいた。
手続きが終わったころにお昼近くになったのだと思うが、食堂でラーメンを食べたのを覚えている。
おそらく手続きが終わった後に、検査をしたのだろう。
その後に看護婦さんと会い、病室でのことなどの説明を受けて、いよいよ病室へ、入院である。

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【2度目の入院】その1 

小学校5年生のことである。
おそらく人生2度目の入院生活だ。
自分のサイトにも時々名称が出てくる、宮城県仙台市にある「国立療養所西多賀病院」(現独立行政法人国立病院機構 西多賀病院)で「大腿四頭筋拘縮症」の治療で8カ月の病院生活を送った。

自分は小さい頃に体が余り健康ではなく、よく市内の総合病院にお世話になっていた・・らしい。そこで治療のために太もも(大腿四頭筋)へ筋肉注射をされていた。
それが原因で、筋肉が固まり成長するにつれて足を引きずり独特な歩き方をするようになってしまった。それが大腿四頭筋拘縮症である。
具体的な治療方法は理解していないが、手術で萎縮した筋肉を(どうにかする?)、手術の後にある程度の期間、膝を屈折させたままギブスで固定し太ももの筋肉を伸ばす、ギブスをとった後はリハビリにより筋力を付けることと筋肉を伸ばす・・ことが一般的ではないかな。
西多賀病院には一関からの子供たちが大腿四頭筋拘縮症のために断続的に何人も入院した。
自分もその中の一人である。

西多賀病院は脊髄側湾症(だったと思う)や股関節ペルテス、進行性筋ジストロフィー症の子供たちが大勢入院し治療していた。
そんなわけで、西多賀病院には分校として小中学校が併設されていた。現在でも小中学校が併設されているのではないかな。
病室がそのまま教室になるので、子供たちは楽しい学校生活も一緒に送れるというわけである。
そう言えば当時の病院の住所も覚えている。
「宮城県仙台市鈎取字紅堂13 国立西多賀病院 6下8号」である。
最後の6下8号は6病棟の1階8号室という意味である。
ちなみに下は1階で上が2階という意味である。(笑)

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【2度目の入院】その0 

2度目の入院である。
小学校の5年生の時に、仙台にある国立療養所西多賀病院(現独立行政法人国立病院機構 西多賀病院)という病院に8ヶ月の間入院していた。
かなり昔の事であるが、自分にとっての原風景というこの8ヶ月間に起きたこと見たことが、自分の人生を支えていると言っても大げさでは無いかも知れない。
色々と思い出すことも多いのだけれど、その中でもかなり印象的だった日のことを書いてみた。

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